上智大学文部日本史入試問題解説

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上智大学法学部2013年度入試問題研究 

上智大学文学部(国文)・法学部(国際関係法)・総合人間科(社会) 日本史過去問研究



2013年度上智大学法学部日本史入試問題は例年通りの出題年代と出題構成でした。出題テーマは1 奈良時代の人物 2鎌倉時代の出来事 3 江戸時代の資料問題 4 現代(昭和)の政治史,例年通り大問4題構成でした。オールマークシートの解答形式ですが、かなり掘り下げた歴史の知識が必要です。今回は3 江戸時代の資料問題を解説します。


2013年度日本史入試問題

3 江戸時代の資料問題 解説解答


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出典史料解説

史料A『折たく柴の記』

『折たく柴の記』:新井白石がその子孫に、祖先および自分自身の事績を知らせるとともに、主君の6代徳川将軍家宣、7代家継の善政をも認識させ、後世にもそれを正しく伝えさせようとの意図のもとに、幕府引退後まもない時期、1716年(享保1)に執筆したもの。藩翰譜作成のいきさつも記載されている。現存自筆本(新井家)はその後も増補したものと思われる。3巻からなり、上巻には祖父、父母、白石自身の事績(家宣の将軍世継時代まで)を記し、中巻には自らが側用人間部詮房とともに献身的に補佐した6代家宣の政治的業績を、下巻には幼君7代家継時代のそれを記述している。


出題史料は「荻原重秀の貨幣改鋳献策」

問1

解説
①出典:太宰春台『経済録』
②出典:新井白石『読史余論』
③出典:本居宣長 『直毘霊』
④出典:瑞渓周鳳『善隣国宝記』
⑤出典:『梅松論』

答  ②

問2

解説
⑤ジョヴァンニ=シドッチ:イタリア人のカトリック司祭。禁教令下の日本に潜入した最後の宣教師。1708年(宝永5)スペイン船で来日。屋久島に単身上陸したが直ちに捕らえられ,長崎を経て江戸へ送られ,小石川切支丹屋敷に幽閉さた。その間,新井白石はシドッチを審問し,西洋の風俗,歴史,天文,地理などについて記した『西洋紀聞』『采覧異言』を著した。

答   ⑤

問3

問3  前掲の史料Aの作者の著作で、問2の外国人(⑤ジョヴァンニ=シドッチ)への尋問から生み出され、1715年に成立した3巻から成る書はどれか。もっとも適切なものを、次から1つ選びなさい。①『西洋記聞』②『群書類従』③『華夷通商考』④『蘭学階梯』⑤『采覧異言』
解説
①『西洋記聞』:新井白石がシドッチを幕命により江戸小石川切支丹屋敷において訊問し,聴取した内容にオランダ人への質疑を加えてまとめた記述。全3巻。上巻はシドッチの潜入,取調べの様子から獄死に至る経過。中巻は諸国の事情・地理など。下巻は来日の目的とキリスト教についてのシドッチの解説と白石の解釈・批判。

⑤『采覧異言』:新井白石が、シドッチを尋問して得た知識を基に著わされた日本最初の組織的世界地理書。マテオ・リッチの『坤輿万国全図』やオランダ製の世界地図等多くの資料を用い、 各州名国の地理を説明しながら所説に典拠を明らかにしている。全五巻。正徳3年(1713)成立。


答  ①

問4

問4 前掲の史料Aの作者は、ある将軍の就任時に幕閣に入った人物であるが、その将軍とは誰か。もっとも適切な人名を、次から1つ選びなさい。①徳川家光②徳川綱吉③徳川家宣④徳川家継⑤徳川吉宗
解説
新井白石:木下順庵の高弟の1人として、その推挙で甲府藩主徳川綱豊(のち6代将軍家宣)の侍講となった。家宣が将軍となると側用人間部詮房とともに、次代家継の政治も補佐した。

答   ③

問5

問5 前掲の史料Aの作者の政治を、当時の年号で呼ぶことがある。その年号は何か。最も適切なものを、次から1つ選びなさい。①寛永②寛文③元禄④正徳⑤天保


解説
①寛永:三代将軍家光の治世(元和・寛永・正保・慶安
②寛文四代将軍家綱の治世(慶安・承応・明暦・万治・寛文・延宝)
③元禄:五代将軍綱吉の治世(延宝・天和・貞享・元禄・宝永)
④正徳:六代将軍家宣の治世(宝永・正徳)七代将軍家継の治世(正徳)
⑤天保:十一代将軍家斉の治世(天明・寛政・享和・文化・文政・天保)十二代将軍家慶の治世(天保・弘化・嘉永)

答  ④

問6

解説
① 柳沢吉保
② 前田利常
③ 大岡忠相
④ 荻原重秀
⑤ 田沼意次

答   ④

問7

解説
江戸時代、町人の負担は屋敷地について、稲作生産力を基準とした地子銭のみを納めたため、農村より遙かに負担が軽く、加えて江戸・大坂・京都や城下町では免除されている例が多い。また大工・鍛冶などの職人はその技術によって夫役を提供させられた。営業には冥加金や運上などの税が課せられた。この負担の軽さは町人への帰省の緩さとアイ待った自由な経済活動を可能にし、自然経済を崩していくことになる。

解答   (ア)運上 ②  (イ)地子銭 ④ (ウ)冥加 ③  (エ)御用金  ①

問8

問8 前掲の史料Aの下線部(c)にある「去歳」とは、西暦でいうと何年を指すか。もっとも適切なものを、次から1つ選びなさい。①1706年②1706年③1708年④1709年⑤1710年
解説

今重秀が議り申す所は、御料すべて四百万石。歳々に納らるゝ所の金は凡七十六七万両余。此内長崎の運上といふもの四万両、酒運上といふもの六千両、これら近江守申行ひしところなり。此内夏冬御給金の料三十万両余を除く外、余る所は四十六七万両余なり。しかるに去歳の国用、凡金百四十万両に及べり。此他に内裏を造りまゐらせらるゝ所の料凡金七八十万両を用ひらるべし。されば、今国財の足らざる所、凡百七八十万両に余れり。

荻原重秀が計算して申すところでは、幕府の御料は400万石。年々上納される金は約76~77万両で、その内長崎運上が4万両、酒運上が6000。これらは荻原近江守重秀が申したことです。 この内、旗本への夏冬の給金30万両を除くと、余るのは46~47万両となります。 しかし去年の国の費用は140万両に及んでいます。この他に内裏の修理に80万両が必要です。そうすると、今、国の財の不足は170~180万両になります。

宝永6年正月10日(1709年)、五代将軍徳川綱吉が没し、徳川家宣が将軍職に就くこととなった。2月3日、その代替わりの諸費用についてに家宣が重臣を集めて尋ねたところ、荻原重秀は相次ぐ天災対策費に加え、宝永5年3月8日(1708年)の宝永の大火における内裏炎上に伴う建替えなどの出費が嵩むとして幕府財政の窮状を訴え、この緊急事態を切り抜けるには金銀吹替え(改鋳)の他にないとした

答   ③

問9

解説
此他に内裏を造りまゐらせらるゝ所の料凡金七八十万両を用ひらるべし。

宝永の大火:宝永5年(1708年)京都三条上ルの銭屋市兵衛宅より出火し、南西の風に煽られて被害が拡大し、禁裏御所・仙洞御所・女院御所・東宮御所が悉く炎上、公家の邸宅、寺院・町屋など、西は油小路通・北は今出川通・東は河原町通・南は錦小路通に囲まれた上京を中心とした417ヶ町、10351軒諸寺社などを焼いた。


答   ③

問10

解説
朝廷では、貞享4年に霊元天皇が東山天皇に譲位して、仙洞御所より院政を開始した(霊元上皇)のち、近衞 基熙は元禄3年関白に就任し、東山朝において権勢をふるった。宝永4年に近衞 基熙の長男家熈が関白・藤氏長者に就任し、宝永6年東山天皇は中御門天皇に譲位して院政を開始し、近衞 基熙は太政大臣に就任した。近衞 基熙の長女は六代将軍徳川家宣の正室。幕府と朝廷の協調は、閑院宮家創設となって具体化した。それまで世襲親王家伏見宮(始祖は北朝3代崇光天皇の皇子、栄仁親王),桂宮(始祖は第106代正親町天皇の皇孫、智仁親王),有栖川宮(始祖は第107代後陽成天皇の皇子、好仁親王)だった。

答   ③

問11

解説

元禄八年の九月より、金銀の製を改造らる。是より此のかた、歳々に収められし所の公利、総計金凡五百万両、これを以て常にその足らざる所を補ひしに、同じき十六年の冬、大地震によりて、傾き壊れし所々を修繕せらるゝに至りて、彼歳々に収められし所の公利も忽につきぬ。 そののち、又国財たらざる事、もとのごとくなりぬれば、宝永三年七月かさねて、また銀貨を改められしかど、なほ歳用にたらざれば。去年の春、対馬守重富が計ひにて、当十大銭を鋳出さるゝ事をも申行ひ給ひき。(此大銭の事は、近江守もよからぬ事のよし申ししとなり)今に至て此急を救はるべき事、金銀の制を改造らるゝの外、其他あるべからずと申す。


元禄8年(1695年)9月から慶長金銀を改造し、元禄発行することにより、年々収公した公利(出目)は早計で金500万両。これで常に不足した分を補充した。元禄16(1703)年冬の大地震により傾き壊れた所を修理すると、改鋳によって年々収公した出目もあっという間になくなってしまい、その後、また国の財政が足らなくなったので、宝永3(1706)年7月、重ねて又銀貨を改造した。慶長小判の品位は五十二匁二分位(84.2%)程度。元禄小判の規定品位は七十六匁七分位(金57.37%)。寳永通寳は量目2匁5分の銅銭であり、また金銭の計算に不便であったことなどから市場での評判はすこぶる悪く、宝永6年正月(1709年)に鋳銭停止となり、通用も停止された。

答  (ア) ①  (イ) ⑧  (ウ) ⑤  (エ) ⑫  (オ) ⑭

問12

解説
新井白石の経済政策:江戸初期以来、貿易によって金保有量の4分の1,銀保有量の4分の3が流出したとして、正徳5年金銀の海外流出を抑えるため海舶互市新例(長崎新例・正徳新例)をだし、貿易額を制限した。その結果、年間で中国船30隻・銀6000貫目,オランダ船2隻・銀3000貫目とし、一部を銅で支払うことにした。

答  ア ②  イ ⑨  ウ ⑩  エ ⑯  オ ⑳  カ 25  キ 33
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