明治大学文部日本史入試問題解説
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明治大学文学部2012年度入試問題研究
明治大学文学部過去問研究
2012年度の明治大学文学部日本史入試問題は 例年通りマーク・記述併用の解答形式。出題内容も各時代ごとに満遍なく出されていました。
出題内容はⅠ古代の政治・経済・社会 Ⅱ 中世の政治文化史料問題宗教 Ⅲ 近世の政治と外交 Ⅳ 近代の文化 Ⅴ 近現代の詔書史料問題でした。
今回はⅡ 中世の政治文化史料問題(記述式解答形式)を解説します。
2012年度日本史入試問題
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史料A 解説
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此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨
召人 早馬 虚騒動
生頸 還俗 自由出家
俄大名 迷者
安堵 恩賞 虚軍
本領ハナルヽ訴訟人 文書入タル細葛
追従 讒人 禅律僧 下克上スル成出者
器用ノ堪否沙汰モナク モルル人ナキ決断所
(中略)
四夷ヲシツメシ鎌倉ノ 右大将家ノ掟ヨリ 只品有シ武士モミナ ナメンタラニソ今ハナル
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| 出典 『建武年間記(建武記)』:建武新政期において出された法令や諸機関の結番交名などを採録・編集した記録。25の記録類が年代別に編纂されている。全1巻。編者は不明。建武年間から間もない時期に成立したと考えられている。 |
| 二条河原の落書 1334年(建武元年)8月、二条富小路(建武政権の政庁)近くの二条河原に掲げられたとされる落書。編者不詳。 |
| 落書:政治を風刺・批判し、揶揄する目的で人々の目に触れやすい場所に匿名で掲示・配布された文書。 |
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設問1解説解答
| 設問1 空欄aには、この落書が成立した時期に京で政権を掌握した人物の発給文書を示す語が入る。その語を漢字二字で記せ。 |
| 此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(a ) |
| 解説 |
| 二条河原落書の成立時期は「1334年(建武元)8月に成立した、時の社会状況」より 京で政権を掌握した人物=後醍醐天皇の発給文書は綸旨。 |
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綸旨は、天皇の命令を下に達するとき、蔵人がだす文書。ふつうは反古を漉き返した薄墨色の紙に書かれた。院政を廃止した後醍醐天皇が綸旨を院宣に替わる文書と位置づけた建武年間から南北朝時代にかけて著しい量の綸旨が出された。
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| 答 綸旨 |
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設問2 解説解答
| 設問2 空欄bには、室町戦国時代における身分秩序の動揺という社会風潮を象徴する語が入る。その語を、漢字三字で記せ。 |
| 追従 讒人 禅律僧 (b )スル成出者 |
| 解説 |
| 伝統的権威・従来の価値体系を否定し、下位の者が実力で上位の者をしのぎ倒し、権威を奪い取る風潮は武家社会だけの現象ではなく、土一揆・徳政一揆・一向一揆など、土民といわれた国人・農民の蜂起など支配者にとって身分秩序の動揺をもたらすものであった。この風潮は南北朝動乱を契機に顕著となり、室町期を通じて一般化し応仁の乱後とくに激しくなった。 |
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| 答 下克上 / 下剋上 |
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設問3 解説解答
| 下線部(ア)が表す人物の職掌を具体的に述べよ。 |
| 器用ノ堪否沙汰モナク モルル人ナキ(ア)決断所 |
| 解説 |
| 建武の新政の失敗の一つに論功行賞の破綻がある。倒幕に加わった武士達がもっとも期待した土地問題は、恩賞が寺社や公家に厚く、武士達に薄かった。しかも後醍醐天皇は性急のあまり、所領の安堵には天皇の綸旨が必要であるとの命令を出したので、土地政策に異常な混乱を来した。恩賞に漏れたり、本領を失いようになったcいほうぶしが恩賞や本領安堵を求めて、訴訟のため都に殺到する有様であった。このため本領安堵を求める者が続々と都に来たので翌月には中止され、所領の紛争処理を主な目的として雑訴決断所が設けられた。『梅松論』によれば、雑訴決断所は「決断所と号て、新に造らる、是は先代(鎌倉幕府)引付の沙汰のたつ所也」と評価されている。すなわち鎌倉幕府体制における引付衆と同様の存在として見なされていた。 |
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| 答 鎌倉幕府体制における引付衆と同様の存在として見なされ、所領相論の採決や地頭・御家人らの所領安堵、のちには天皇の綸旨の承認も行うようになった。 |
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設問4 解説解答
| 下線部(イ)が表す人物の姓名を漢字で述べよ。 |
| 四夷ヲシツメシ鎌倉ノ (イ)右大将家ノ掟ヨリ 只品有シ武士モミナ ナメンタラニソ今ハナル |
| 解説 |
| 近衛大将は常設の武官職の最高位で従三位相当。左右の近衛大将をそれぞれ「左大将」・「右大将」と略す。鎌倉時代には源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼして全国の軍事支配を完成した翌年はじめて入洛し大納言兼右大将に任ぜられ、源頼朝を「右大将家」と呼ぶ。
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| 答 源頼朝 |
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史料B 解説
| ガスパル=ヴィレラ書簡 |
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堺の町は、甚だ広大にして大なる商人多数あり。この町は、ベニス市の如く執政官によりて治めらる。 1561年(永禄4年) 8月17日
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| 日本全国当堺の町より安全なる所なく、他の諸国に於て動乱あるも、此町には嘗て無く、敗者も勝者も、此町に来住すれば皆平和に生活し、諸人相和し、他人に害を加うる者なし。市街に於ては嘗て紛擾起ることなく、敵味方の差別なく皆大なる愛情と礼儀を以て応対せり。市街には悉く門ありて番人を付し、紛擾あれば直に之を閉づることも一の理由なるべし。町は甚だ堅固にして、西方は海を以て、又他の側は深き堀を以て囲まれ、常に水充満せり。永禄5(1562)年 |
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| 出典 『耶蘇会士日本通信』:1598年ポルトガルのエボラで出版された《日本シナ両国を旅行せる耶蘇会のパードレおよびイルマンなどがインドおよびヨーロッパの同会会員に贈った1549年より1580年に至る書簡》 |
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設問5 解説解答
| 空欄Cにあてはまる漢字を記せ。 |
| [C]の町は、甚だ広大にして大なる商人多数あり。 |
| 解説 |
| 堺の町は、甚だ広大にして大なる商人多数あり。 |
| 商品流通と海洋公開の発達によって、港町の反映はめざましかった。とくに堺は勘合貿易船の発着地として栄えた。 |
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| 答 堺 |
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設問6 解説解答
| 空欄Cは、中国の統一王朝との貿易によって経済的繁栄をとげた。その王朝の国号を漢字で記せ。 |
| c堺の町は、甚だ広大にして大なる商人多数あり。 |
| 解説 |
| 足利義満は明の和光の取り締まりと正式な通交の求めに応じ、日本国王から明の皇帝への朝貢と皇帝からそれへのかし品という朝貢貿易の形をとって、1403年に日明貿易は開始された。貿易の実験は始め幕府が握り、五山の禅僧が勘合符などの事務を取り扱ったが、次第に博多承認と結んだ大内氏と堺承認と結んだ細川氏の手に貿易の実権が移るようになった。 |
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| 答 明 |
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設問7 解説解答
| 下線部(ウ)の立場に相当する、この町における地位を漢字で記せ。 |
| この町は、ベニス市の如くウ執政官によりて治めらる。 |
| 解説 |
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堺では能登屋や臙脂屋などの有力商人(有徳者)により構成された会合衆と称する36人により自治が行われた。
36人の会合衆の中でもとりわけ有力な者が10人の納屋衆であるとされる。
堺は摂津の堺荘と和泉の堺南荘に分かれていたが、会合衆が集まる会所はそれぞれにあった。堺荘の会所の場所は不明であるが、堺南荘の会所は、発掘調査などで開口神社境内の念仏廃寺にあったと推定されている。
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| 答 会合衆 |
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設問8 解説解答
| この町の自治的な支配のあり方は、ある人物によって16世紀後半に否定される。その人物の姓名を漢字で記せ。 |
| 解説 |
| 1568年、堺の会合衆たちは織田信長からの軍資金調達を拒否し、そのため翌年織田信長に攻められ屈服し、自治的性格は失われ、代官の派遣を受け入れた。 |
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| 答 織田信長 |
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設問9 解説解答
| 上の書簡を書いた人物の名を記せ。 |
| 解説 |
| ガスパル=ヴィレラ:ポルトガル人,イエズス会宣教師。1556年(弘治2年)、豊後府内に上陸し、日本での布教活動を開始。1560年(永禄3年)、苦労の末に将軍足利義輝に謁見し京におけるキリスト教宣教許可の制札を受け、四条坊門姥柳町に定住し、教会とした。1565年(永禄8年)、義輝が殺されると京を追放となり、堺に逃れた。以後は畿内を中心に豊後、平戸、堺などで奮闘した。この間、高山友照、右近父子らに洗礼を授けた。1570年(元亀元年)インドに渡り、翌1572年ゴアで病没した。 |
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| 答 ガスパル=ヴィレラ |
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