中央大学受験対策入試問題解説

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中央大学受験過去問研究2012年度入試問題

 

中央大学文学部過去問研究



2012年度中央大学文学部日本史入試問題は大問5題構成でマーク式記述式併用型の解答形式でした。出題は 先史古代〜近代までの各時代からの知識を中心とする内容でした。

今回は 3.中世史料に関する出題を解説します。

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日本史3.中世史料 

問題









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解説・解答

問1解説解答

解説 
第七十二代、第三十九世、白川院。諱は貞仁,[ A ]第一の子。
Aは藤原摂関家と姻戚関係の薄い後三条天皇。
ア:後三条天皇は後朱雀天皇の第二皇子。母は三条天皇第三皇女、皇后禎子内親王(陽明門院)。宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇となった。
イ:太閤検地では測量基準を統一し、枡を京枡に定めた。
ウ:延喜の荘園整理令:902(延喜2)年、左大臣藤原時平が中心の政府がだし、朝廷の直轄地(御厨)を除き、院・宮・王臣家の厨・荘園を禁止した。
エ:延久の荘園整理令では、従来の荘園整理令よりも強固に実行するために、本家・領家および国司から荘園関係文書を提出させて調査し、1945年以後に不輸を認められた荘園はその特権を認めず、さらにそれ以前からの荘園でも、正式な手続きを経なかったり国司の政務に妨げのあるものは禁止た。この審査を行う機関として、延久元年(1069年)に記録荘園券契所が設置された。
オ:記録荘園券契所は後三条天皇の発布した延久の荘園整理令の実施に伴い設置され、源経長、学者の大江匡房らが起用された。

答   エ

問2解説解答

解説
a:平治の乱
b:保元の乱
c:鹿ヶ谷の陰謀
d:康和の乱(源義親追討事件)

答  d→b→a→c


問3解説解答

空欄Bには上皇の命令を伝える文書の名称が入る。その名称を漢字2字で記しなさい。
第七十二代、第三十九世、白河院。諱は貞仁、A:後三条第一の子。(中略)天下を治給こと十四年。太子にゆづりて尊号あり。世の政をはじめて院中にてしらせ給。(中略)まして此御代には院にて政をきかせ給へば、執柄はたゞ職にそなはりたるばかりになりぬ。されどこれより又ふるきすがたは一変するにや侍けん。執柄世をおこなはれしかど、宣旨(せんじ)・官符(くわんぷ)にてこそ天下の事は施行(しかう)せられしに、此御時より・院庁御下文をおもくせられしによりて在位の君又位にそなはり給へるばかりなり。(後略)
解説
上皇の命令を伝える文書:院宣,院庁下文といわれ、詔勅・宣旨に匹敵する権威を持っていた。 
院宣:上皇の旨を受けて院司が書いて出す奉書式の文書で、本来私的な性格の文書。
院庁下文:院庁が発給した文書。院司が連署する下文の形式である。院宣より公的性格は強かった。

答   院宣



問4解説解答

下線部A『神皇正統記』の書物の著者は誰か。その姓名を記しなさい。
解説
後宇多・後醍醐・後村上の3天皇に仕えた大覚寺統の公家・武将の北畠親房は衰運の南朝の大黒柱だった。1338(延元3)年、義良親王を奉じて東国に下向の途中常陸に漂着して小田城・関城を拠点に関東で戦った。神宮寺・小田・関・大宝の諸城に在陣中『職原抄』『神皇正統記』を記した。
神皇正統記は幼帝後村上天皇のために、南朝の正統性を述べた歴史書。はじめに序論を置き、神代・地神について記し、つづいて歴代天皇の事績を後村上天皇の代までのべている。

答  北畠親房


問5解説解答

下線部B『御成敗式目』の法令は、史料2で「右大将家」と記されている人物以来の先例や、武家社会の道理にもとづいて制定された。「右大将家」に該当する人物の姓名を記しなさい。
解説
『御成敗式目』:承久の乱後いたるところで荘園領主と新補地頭の権限を巡る紛争が増大した。荘園領主はその解決を幕府へ求め、地頭の取り締まりを要求し、また一方で、御家人間の所領関係についての訴訟も増えてきた。このため、守護や地頭の権限や義務を明らかにし、公平な裁判を行う基準を成文化することが必要となり、1232(貞永1)年に御成敗式目が作られた。式目は三善康連らが起草。51箇条からなり、武士達にもわかりやすいように平易な和洋漢文で書かれていた。内容は、頼朝以来の慣例と武家社会の「道理」に基づいて守護地頭の権限、御家人の身分、御家人の相続や権限・義務などを定めたものである。

答   源頼朝




問6解説解答

空欄Cには、天皇・院の御所の警護を国内の御家人につとめさせる任務の名称が入る。その名称を漢字4字で記しなさい。
一、諸国守護人奉行の事
 右、右大将家の御時定め置かるる所は、(C)・謀叛・殺害人(付たり。夜討・強盗・山賊・海賊)等の事なり。
解説
一、諸国守護人奉行の事
 右、右大将家の御時定め置かるる所は、大番催促・謀叛・殺害人(付たり。夜討・強盗・山賊・海賊)等の事なり。而るに近年、代官を郡郷に分ち補し、公事庄保に充て課せ、国司に非ずして国務を妨げ、地頭に非ずして地利を貪る。所行の企て甚だ以て無道なり。

一、諸国守護人の職務・権限について
このことについて、右大将家の時代に決められたのは、大番役催促、謀叛人・殺害人(夜討ち・強盗・山賊・海賊を付け加える)の逮捕などの事である。ところが近年、守護は代官をそれぞれ郡郷に任命して、夫役や雑税を荘園や公領に課し、国司でもないのに国政を妨げ、地頭でもないのに土地からの収益をむさぼっている。このような行為は甚だしく道理からはずれている。

答   大番催促


問7解説解答

解説
史料2『御成敗式目』
1185年北条時政を上洛させた源頼朝は、大江広元の献策をいれて義経・行家の追捕を名目に、守護地頭の設置を後白河法皇に承認させた。守護は国内の御家人を統率し、平時には大犯三か条とよばれた大番催促と謀反人・殺害人の逮捕が主なものであり、また戦時には国内の御家人を指揮し、その国の治安の維持につとめた。守護は、荘園・国衙領を直接支配する権限を持たなかったが、在庁官人に対する命令権をもっていたので、国衙の一般行政にも一部介入するようになった。

答   イ


問8解説解答

史料3に記されている「公方」と「将軍」は同じ人物を指している。該当する人物の姓名を記しなさい。
解説
廿四日。雨降る。赤松、公方を入れ申す。猿楽ありと云々。晩に及び館喧嘩出来すと云々。騒動の是非いまだ聞かざるのところ、三条手負て帰る。公方の御事は実説分明ならず。赤松の家炎上し、武士東西に馳せ行く。(後略)

廿五日、晴。昨日の儀あらあら聞く。(中略)御後の御障子引あけて、武士数輩出て則ち公方を討ち申す。(中略)所詮、赤松討たるべき御企露顕の間、遮って討ち申すと云々。自業自得果して無力の事か。将軍此の如き犬死、古来其の例を聞かざる事なり。(後略)

出典:『看聞日記』伏見宮貞成親王(1372年 - 1456年)の日記。応永23年(1416年)より文安5年(1448年)まで33年間に渡り幕政や世相、貞成親王の身辺などについて記されている。応永23年の将軍は4代足利義持、文安5年の将軍は空位。7代足利義勝が嘉吉3年(1443年)に早世したため、足利義政は管領の畠山持国などの後見を得て、8歳で将軍職に選出され、元服を迎えた宝徳元年(1449年)に正式に第8代将軍として就任した。

問題史料は嘉吉元年六月二十四日・二十五日条


嘉吉の乱:足利義教は赤松満祐の一族である赤松貞村を寵愛し、1440年には、赤松満祐の弟の所領を没収して貞村に与えた。このため、かねてから義教に不満を抱いていた満祐は義教を殺すことを決意し、嘉吉元(1441)年自邸に宴を張って義教を招いて謀殺した。満祐は本領の播磨に逃れたが、山名持豊らにせめられて自殺した。

答  足利義教



問9解説解答

史料3の「将軍(足利義教)」は、将軍権力の強化をねらい、対立する鎌倉公方を討った。その事件の名称を記しなさい。
解説
6代将軍足利義教も3代義満4代義持の政策を引き継ぎ幕府権力の拡大につとめた。鎌倉公方足利持氏は執事の上杉憲実と争い、やがて将軍に反抗する勢いを示したので、義教は1439(永享11)年、持氏を攻め滅ぼした。

答   永享の乱


問10解説解答

解説
ア:足利義満は1401年、九州探題に倭寇を取り締まらせるとともに、僧祖阿と博多の商人肥富を明に派遣し、国交を求めた。この勘合貿易は義満の後4代将軍義持が朝貢形式に反対して一時中止した。
イ:李氏朝鮮と日本との貿易は、足利義満が朝鮮の要求をいれて和冦の取り締まりにつとめ、倭寇にとらえられていた捕虜朝鮮人を創刊したことを契機に、14世紀末から開始され、対馬の守護宗氏の統制のもとでおこなわれた。しかし倭寇禁圧に力を入れた宗貞茂が死ぬと、倭寇の活動がふたたび活発化した。朝鮮は対馬を倭寇の根拠地と考えて、1419年、兵船227隻、兵員17000余人の大軍で来襲してきたが宗貞盛がこれを迎撃した。
ウ:勘合貿易の中断は幕府の在世や日本経済にとって打撃であったので、6代将軍義教の1432年に再開された。
エ:交易の行われた三浦には多くの日本人も居留していたが、また密貿易の温床にもなっていた。そのため朝鮮が取り締まりを強化したので居留民の不満が高まり、1510年三浦の居留民が宗氏の応援を得て及而浦・富山浦を襲い、いわゆる三浦の乱がおこった。この後、朝鮮と宗氏の間に和議が結ばれたが、この乱を契機に貿易は衰えた。
オ:1523年、大内氏の遣明船が寧波に到着したあと、細川氏の遣明船が無効になった勘合符をもって入港してきた。市船司に賄賂を贈った細川氏が、交易品を先に陸揚げしたことから大内氏が怒り、細川氏の船を焼き引き上げた。貿易を一時停止した明は、幕府・大内氏から事情を聞き了解し、以後、貿易は大内氏の独占となった。

答   ウ

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