上智大学文部日本史入試問題解説
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上智大学法学部2010年度入試問題研究
上智大学文学部(国文)・法学部(国際関係法)・総合人間科(社会) 日本史過去問研究
2010年度上智大学法学部日本史入試問題は1 奈良時代 2 中古~中世史料 3 17世紀前後の朝鮮・琉球・蝦夷地の状況 4 戦後史の例年通り大問4題構成でした。オールマークシートの解答形式ですが、かなり掘り下げた歴史の知識が必要です。今回は2史料問題を解説します。
2010年度日本史入試問題
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史料解説 A
一、質券売買地の事
右、所領を以て或は質券に入れ流し、或は売買せしむるの条、 御家人 等侘ていの基なり。向後に於いては、停止に従ふべし。以前沽却の分に至りては、本主領掌せしむべし。但し、或は御下文・下知状を成し給ひ、或は知行廿箇年を過ぐるは、公私の領を論ぜず、今更相違有るべからず。
次に、非御家人・凡下の輩の質券買得地の事。年紀を過ぐると雖も、売却知行せしむべし。
永仁五年七月二十二日
御家人所領の売買、質入れは御家人の困窮のもとであるから、今後は禁止所領の売買、質入れはし、すでに売却済みの所領は、本主に領有して支配させること。ただし、幕府が土地の譲渡・売却を認めた御下文・下知状が下されたものと買得後20か年を超過したものを除く。また、買主が非御家人、凡下(=一般庶民・ここでは借上)である場合には、20か年以上を経過した所領についても売主による取り戻しを認める。
永仁の徳政令出典 『東寺百合文書』
『東寺百合文書』;東寺に伝来した古文書。前田綱紀が寄贈した百箱に収納されていることからいう。
史料解説 B
御合体 の事、連々兼煕卿を以て申し合せ候の処、入眼の条珍重に候。① 三種神器 帰座あるべきの上は、御譲国の儀式をなすべきの旨、其の意を得候。②自今以後、両朝の御流相代々御譲位治定せしめ候ひ畢ぬ。就中、③諸国の国衙は悉く皆御計たるべく候。長講堂領に於いては、諸国分は一円持明院殿の御進止たるべく候。
明徳 三年十一月十三日 義満
阿野前内大臣殿
義満は吉 田兼熙を使者として南山に送り、南朝では吉田宗房と阿野実為が斡旋にあたり、①~④の条件が合意され、南北両朝の合一が成立した。
① 神器は譲位の儀式を以て後小松天皇に譲ること。
② 自後の両統を代々迭立すること
③ 国衙領は大覚寺統の御領とすること
④ 長講堂領は持明院統の支配とすること
出典 『近衛家文書』
史料解説 C
正長元年九月 日、一、天下の土民蜂起す。 徳政 と号し、酒屋・土倉・ 寺院 等を破却せしめ、雑物等悉にこれを取り、借銭等悉く之を破る。管領これを成敗す。凡そ亡国の基、これに過ぐべからず。日本開白以来、土民蜂起是れ初めなり。
正長の土(徳政)一揆 :正長1(1428)年 近江の国坂本の馬借が 徳政を要求して蜂起し、京都周辺の農民が惣村の結合をもとに一揆を起こして呼応し、京都の酒屋・土倉・寺院を襲撃し質物を奪い、借用証文を破棄し、自力で徳政を行った。
出典 『大乗院日記目録』 :興福寺大乗院門跡尋尊が、大乗院所蔵の日記を抜粋し編集したもの。
史料解説 D
六波羅 殿の御一門の公達といひてしかば、華族も栄耀も、面をむかへ肩をならぶる人なし。されば入道相国の小姑、平大納言時忠卿のたまひけるは、「この一門にあらざらん人は、皆人非人なるべし」とぞのたまびける。
そのほか、御娘八人おはしき。
一人は后に立たせ給ふ。二十二にて皇子御誕生ありて、皇太子に立ち、位に即かせ給ひしかば、院号かうぶらせ給ひて、建礼門院とぞ申しける。
日本秋津島にわづかに六十六か国、平家知行の国三十余箇国、すでに半国に越えたり。そのほか荘園、田畠、いくらといふ数を知らず。
「 六波羅殿の御一家の君達といわれると、摂関家に次ぐほどの名家である清華家の人々も顔を合わせることも、肩を並べることもできない。
平清盛の妻の弟、平時忠がおっしゃったことに「この一門にあらざらん人は、皆人非人なるべし 。」とおっしゃった。
その(平清盛の子息)意外に、娘が8人いらっしゃった。
1人(=徳子)は中宮にお立ちになった。二十二歳で皇子をお産みになり、その皇子は皇太子に立ち、天皇に即位された(=安徳天皇)ので、院号をお受けになり、、建礼門院と申し上げた。
日本にはわずかに66カ国があり、平家の知行国は三十箇所余り、すでに半数を超えた。そのほか荘園・田畑どのくらいあるのか数え切れない。
出典:平家物語』巻第一「禿髪」~「我身栄花」
史料解説 E
元弘三年の今は天下一統に成しことこそめづらしけれ。 君の御聖断は延喜・天暦のむかしに立帰りて、武家安寧に民屋謳歌し、いつしか諸国に国司 守護 を定め、卿相雲客各其階位に登りし体、実に目出かりし善政なり。
爰に、京都の聖断を聞き奉るに、記録所・ 決断所 をゝかるといへども、近臣臨時に内奏を経て非義を申行間、綸言朝に変じ暮に改まりし程に、諸人の浮沈、掌を返すがごとし。
元弘三年 (1333) の今、天下一統となったのは珍しいことである。君の御聖断は延喜天暦の昔に立ち帰り、武家は安寧を謳歌し、諸国には国司守護を定め、卿相雲客はおのおの位階に登り、実にめでたい善政であった。
ところが、京都の聖断を聞き奉るに、記録所、決断所を置かれたにもかかわらず、近臣が臨時に内奏をおこなって非義を申し立てたため、綸言は朝に変わり暮れに改まり、諸人の浮沈は掌を返すかのようであった。
出典 『梅松論』
『梅松論』: 1349年ごろの成立。鎌倉幕府の治績から尊氏が政権を掌握するまでの過程を、室町幕府成立の正当性を主張する立場から書かれている。
問1解説・解答
一、質券売買地の事
右、所領を以て或は質券に入れ流し、或は売買せしむるの条、(イ 御家人 )等侘ていの基なり。向後に於いては、停止に従ふべし。以前沽却の分に至りては、本主領掌せしむべし。但し、或は御下文・下知状を成し給ひ、或は知行廿箇年を過ぐるは、公私の領を論ぜず、今更相違有るべからず。 次に、非御家人・凡下の輩の質券買得地の事。年紀を過ぐると雖も、売却知行せしむべし。
(ロ 御合体 )の事、連々兼煕卿を以て申し合せ候の処、入眼の条珍重に候。①( ハ 三種神器 )帰座あるべきの上は、御譲国の儀式をなすべきの旨、其の意を得候。②自今以後、両朝の御流相代々御譲位治定せしめ候ひ畢ぬ。就中、③諸国の国衙は悉く皆御計たるべく候。長講堂領に於いては、諸国分は一円持明院殿の御進止たるべく候。
正長元年九月 日、一、天下の土民蜂起す。(ニ 徳政 )と号し、酒屋・土倉・(ホ 寺院 )等を破却せしめ、雑物等悉にこれを取り、借銭等悉く之を破る。管領これを成敗す。凡そ亡国の基、これに過ぐべからず。日本開白以来、土民蜂起
(ヘ 六波羅 )殿の御一門の公達といひてしかば、華族も栄耀も、面をむかへ肩をならぶる人なし。されば入道相国の小姑、平大納言時忠卿のたまひけるは、「この一門にあらざらん人は、皆人非人なるべし」とぞのたまびける。
元弘三年の今は天下一統に成しことこそめづらしけれ。 君の御聖断は延喜・天暦のむかしに立帰りて、武家安寧に民屋謳歌し、いつしか諸国に国司(ト 守護 )を定め、卿相雲客各其階位に登りし体、実に目出かりし善政なり。
爰に、京都の聖断を聞き奉るに、記録所・(チ 決断所 )をゝかるといへども、近臣臨時に内奏を経て非義を申行間、綸言朝に変じ暮に改まりし程に、諸人の浮沈、掌を返すがごとし。
解答 イ ⑦ ロ ⑬ ハ ④ ニ ⑭ ホ ⑨ ヘ ① ト ⑩ チ ⑤
解答解答
解説
(1) 1392年、足利義満は南朝の後亀山天皇に和睦を申し入れ、後亀山天皇をこの提案を受け入れ、京都に戻って三種の神器を北朝の後小松天皇に譲った。
(2)(3) 長講堂:後白河院は所有する莫大な荘園を長講堂に寄進し長講堂領が成立した。長講堂領は後白河院から宣陽門院覲子内親王に譲られ、当初院政の財政基盤となったが、承久の乱後は鎌倉幕府の管理下に入り、後深草天皇→伏見天皇→後伏見天皇→花園天皇→光厳天皇→崇光天皇→後小松天皇と持明院統に伝領された。
(4) 平清盛は娘徳子を高倉天皇の中宮とし、安徳天皇の外祖父として権力を握った。
(5) 後醍醐天皇:後宇多天皇の第二皇子。1318年に大覚寺統から即位。1321年院政を廃止し天皇親政を復活させた。
答 (1) ⑦ (2) ⑫ (3) ③ (4) ④ (5) ⑨
問3解説・解答
解説
室町時代の出来事は
① 1338
② 酒屋役・土倉役ともに、はじめは臨時的なものであったが、室町中期になると、この課役が幕府財政上に占める位置は重要性を持ち、頻繁に取り立て、幕府の高利貸しへの依存度は高まった。
③ 1372年二条良基は連歌の規則書として『応安新式』を定めた。
⑤ 1441年 ⑧ 風姿花伝 は世阿弥の残した21種の伝書のうち最初の作品。成立は15世紀の初め頃。全七編あり、最初の三つが応永7年(1400年)に、残りがその後20年くらいかけて執筆・改訂されたと考えられている。
⑨ 足利 義教 の在位は1428年~1441年。
⑪室町幕府は、1454年の土一揆を機に分一徳政令を発布して、債権債務額の1割を一種の手数料として幕府に納めた紛争当事者に当該債権債務の権利を許す命令を出した。
正長元年は1428年。
元弘三年:1333年。新田義貞が倒幕の兵を挙げて鎌倉を攻め、北条高時以下を自殺させた。
答 (a) ⑨ (b) ④
問4解説・解答
史料A:
一、質券売買地の事
右、所領を以て或は質券に入れ流し、或は売買せしむるの条、 御家人 等侘ていの基なり。向後に於いては、停止に従ふべし。以前沽却の分に至りては、本主領掌せしむべし。但し、或は御下文・下知状を成し給ひ、或は知行廿箇年を過ぐるは、公私の領を論ぜず、今更相違有るべからず。
次に、非御家人・凡下の輩の質券買得地の事。年紀を過ぐると雖も、売却知行せしむべし。
永仁五年七月二十二日
永仁の徳政令出典『東寺百合文書』
史料B:(南北朝)御合体 の事、連々兼煕卿を以て申し合せ候の処、入眼の条珍重に候。① 三種神器 帰座あるべきの上は、御譲国の儀式をなすべきの旨、其の意を得候。②自今以後、両朝の御流相代々御譲位治定せしめ候ひ畢ぬ。就中、③諸国の国衙は悉く皆御計たるべく候。長講堂領に於いては、諸国分は一円持明院殿の御進止たるべく候。
明徳 三年十一月十三日 義満
阿野前内大臣殿
史料C: 正長元年九月 日、一、天下の土民蜂起す。 徳政 と号し、酒屋・土倉・ 寺院 等を破却せしめ、雑物等悉にこれを取り、借銭等悉く之を破る。管領これを成敗す。凡そ亡国の基、これに過ぐべからず。日本開白以来、土民蜂起是れ初めなり。 正長の土(徳政)一揆
史料D: 六波羅 殿の御一門の公達といひてしかば、華族も栄耀も、面をむかへ肩をならぶる人なし。されば入道相国の小姑、平大納言時忠卿のたまひけるは、「この一門にあらざらん人は、皆人非人なるべし」とぞのたまびける。
そのほか、御娘八人おはしき。
一人は后に立たせ給ふ。二十二にて皇子御誕生ありて、皇太子に立ち、位に即かせ給ひしかば、院号かうぶらせ給ひて、建礼門院とぞ申しける。
日本秋津島にわづかに六十六か国、平家知行の国三十余箇国、すでに半国に越えたり。そのほか荘園、田畠、いくらといふ数を知らず。 出典:平家物語』巻第一「禿髪」~「我身栄花」
史料E:元弘三年の今は天下一統に成しことこそめづらしけれ。 君の御聖断は延喜・天暦のむかしに立帰りて、武家安寧に民屋謳歌し、いつしか諸国に国司 守護 を定め、卿相雲客各其階位に登りし体、実に目出かりし善政なり。
爰に、京都の聖断を聞き奉るに、記録所・ 決断所 をゝかるといへども、近臣臨時に内奏を経て非義を申行間、綸言朝に変じ暮に改まりし程に、諸人の浮沈、掌を返すがごとし。
答 A ④ B ⑭ C ⑩ D ① E ⑧
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