慶應義塾大学文部日本史入試問題解説

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慶應義塾大学文学部2011年度入試問題研究 

慶應義塾大学文学部過去問研究

日本史入試問題は史料問題を中心に解説していきましょう。日本史史料は参考書・史料集にのせられていない史料も多く出題されています。とくに難関大学の受験合格には史料問題対策は欠かせません。

2011年度慶應義塾大学文学部日本史入試問題は、Ⅰ.Ⅱ 記号選択式 Ⅲ.語句述式 Ⅳ.Ⅴ.史料総合問題の出題形式でした。

今回は Ⅴ 摂関期の政治史料問題を解説します。

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問題Ⅴ




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問1解説解答

問1 史料(イ・ロ)の日記の執筆者は、三蹟の一人に数え上げられる能筆家で、世尊寺流の祖として知られる人物である。その氏名を記しなさい。
解説
三蹟は10世紀頃に活躍した小野道風・藤原佐理・藤原行成。
藤原行成の書風は、世尊寺様とも呼ばれ、宮廷や貴族などでは最も権威ある書法として用いられた。。
史料(イ・ロ)の出典は『権記(行成卿記、権大納言記)』。執筆時期は藤原道長の全盛期で、当時の宮廷状況を知ることができる史料である。

答    藤原行成


問2 解説解答

問2 下線aの「改銭」は、実際には行われなかった。最後に実施されたのはこれより40年ほど前のことであるが、そのときに発行された銭の名称を記しなさい。
長徳四年七月十三日、改元・a改銭のこと。件の両事、今に遅引し、人々鬱となす。
解説

皇朝十二銭(本朝十二銭・皇朝十二文銭):708年(和銅元年)から963年(応和3年)にかけて鋳造された12種類の銅銭の総称。

和同開珎・万年通宝・神功開宝・隆平永宝・富寿神宝・承和昌宝・長年大宝・饒益神宝・貞観永宝・寛平大宝・延喜通宝・乾元大宝


答   乾元大宝


問3 解説解答

問3 下線Bの「国史」の編纂は行われたが、完成には至らなかった。では、完成した「国史」の最後のものは何か。その題名を記しなさい。
解説
(ロ) 寛弘七年八月十三日、b国史を修すること久しく絶ゆ。作続の事、定め申すべし。
六国史編纂完了後の正史編纂は、宇多天皇・醍醐天皇2代の出来事を扱った正史編纂事業が、朱雀天皇の承平6年に撰国史所が設けられて行われたが、安和2年を最後に活動の記録はない。この後、一条天皇の時代の寛弘7年に天皇や藤原道長が新国史の編纂再開を検討した(史料ロ)ものの天皇崩御によって実現しなかった。
六国史:日本書紀・続日本紀日本後紀・続日本後紀日本文徳天皇実録・日本三代実録
答    日本三代実録 


問4 解説解答

問4 下線c「清原致信」の妹は、一条天皇の皇后に仕えた女房で、女流文学者として著名である。彼女が書いた随筆作品の題名を記しなさい。
長和六年三月十一日、六角小路と福小路に侍る小宅に、c清原致信と云う者侍り。是保昌朝臣の郎等なり。 しかるに馬に乗る兵七,八騎, 歩の者十余人ばかり、囲み来りて殺害しおわんぬ。 秦氏元の子。この中にある由を申す。氏元の在所を問うに、頼親朝臣に相従うものといえり。人々広く云わく、「件の頼親、殺人の上手なり。度々この事あり。是、大和国の為頼と云う者を殺害せらるる阿党なり」と云々。
解説
殺害された清原致信は清原元補の息子で清少納言の兄弟。藤原道長の家司であり頼親の叔父である藤原保昌の郎等であった。
出典:『御堂関白日記』
答    枕草子
問5 解説解答
問5 下線d「頼親」の父は、969年、左大臣源高明を密告して、失脚に追い込んだことで知られる。(1) その事件の名称と、(2)頼親の父の氏名を答えなさい。
長和六年三月十一日、六角小路と福小路に侍る小宅に、c清原致信と云う者侍り。是保昌朝臣の郎等なり。 しかるに馬に乗る兵七,八騎, 歩の者十余人ばかり、囲み来りて殺害しおわんぬ。 秦氏元の子。この中にある由を申す。氏元の在所を問うに、d頼親朝臣に相従うものといえり。人々広く云わく、「件の頼親、殺人の上手なり。度々この事あり。是、大和国の為頼と云う者を殺害せらるる阿党なり」と云々
解説
安和の変:969(安和8)年、右大臣藤原師尹は、左大臣源高明を排斥しようとして、源満仲に、源高明らが冷泉天皇に代わって高明の女婿為平親王を天皇にたてようとする陰謀があると密告させ、左大臣源高明を失脚させた。藤原氏の他氏排斥は安和の変をもって完了し、このときの関白藤原実頼以来、藤原北家が代々摂政・関白に任ぜられるようになった。
答    (1) 安和の変  (2) 源満仲

問6 解説解答

問6 下線e「法成寺」は史料(ハ)の執筆者が自分の私的な寺院として建立し、出家後は自身の居所としており、史料(二)に記された上達部や諸大夫の暴挙も、当時の最高権力者である彼の指示によるものと考えられる。彼の氏名を記しなさい。
解説
史料(ハ)の出典:『御堂関白日記』
『御堂関白日記』:摂政太政大臣藤原道長が著した日記。『法成寺摂政記』『法成寺入道左大臣記』『御堂御記』『入道殿御日記』『御堂御暦』などとも称される。御堂関白記の「御堂」とは、藤原道長建立の法成寺無量寿院のことを指している。しかし、道長は生前、一度として関白となっておらず、御堂関白記の名称は後世付けられたものである。

答    藤原道長 

問7 解説解答

問7 ( A )に入るのは、平安京の正門である。あてはまる語を漢字3文字で記しなさい。
(二)治安三年六月十一日、 上達部及び諸大夫、法成寺の堂礎を曳かしむ。或いは宮中諸司の石、神泉苑の門ならびに乾臨閣の石をとり、或いは坊門、(A)、左右京職、寺々の石を取ると云云。嘆くべし、悲しむべし。言うに足らず。
解説
羅城門:古代の条坊都市の中央を南北に貫いた朱雀大路の南端に構えられた大門である。「羅城」とは都城の城壁のこと。

答  羅城門

問8 解説解答

問8 史料(二)の日記は、史料(ハ)の執筆者の栄華を象徴する和歌を記録していることで著名な史料である。これを記したのは、当時の貴族社会の中でも良識の人として知られる人物であったが、その氏名を記しなさい。
解説
史料(二)出典『小右記』:小野宮右大臣藤原実資の日記。全61巻。全文は漢文で書かれている。『野府記』ともいう。
史料(ハ)の執筆者 藤原道長の栄華を象徴する和歌:この世をば」わが世とぞ思ふ 望月の かけたることもなしと思へば

答    藤原実資

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