成蹊大学経済学部日本史入試問題解説

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成蹊大学経済学部2013年度入試問題研究 

成蹊大学経済学部日本史過去問研究

2013年度成蹊大学経済学部日本史入試問題は 1.2. 古代~近世  3.4 近代・現代 に分かれての出題でした。

解答形式はオールマークシート式でした。


今回はⅡ2.古代・近世の史料問題を解説します。




問題 Ⅱ







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解説解答

問1  解説解答

解説
③ 甲午年籍:670年(天智天皇3年)につくられた甲午年籍は、律令的な戸籍の緒言的なものである。戸籍は一般には30年で廃棄されたが、甲午年籍のみは永久保存とsれた。その20年後の甲寅年籍(690年)から6年1造の規定があったと考えられる。③の甲午年籍は正しくは甲寅年籍。

答   ③

(A)問2 解説解答

解説
弘仁:810年から824年までの期間を指す。この時代の天皇は嵯峨天皇、淳和天皇。
貞観:859年から877年までの期間を指す。この時代の天皇は清和天皇、陽成天皇。

延喜:901年から923年までの期間を指す。この時代の天皇は醍醐天皇

徳政論争:805年(延暦24年)桓武天皇の勅により、藤原緒継と菅野真道との間で天下徳政の論争が行われ、緒継の主張が通って、蝦夷征討と造都は中止された。
伊治砦麻呂の乱:光仁朝政治の最大の危機は陸奥の蝦夷の反乱であった。776年(宝亀7年)に出羽国志波村の蝦夷が反乱したのを契機に、780年(宝亀11年)には伊治砦麻呂が按察使紀広純を殺害し多賀城に放火するなど、反乱は東北全域に波及した。→④⑤
阿衡の紛議:887年(仁和3年)11月21日、藤原基経の推薦により臣籍から皇太子、次いで天皇に即位した宇多天皇は、その即位に際して、基経を関白に任じる詔勅を出した。基経は先例により一旦辞退する。天皇は左大弁橘広相に命じて二度目の詔勅を出した。その詔勅に「宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ」との一文があった。文章博士藤原佐世が「阿衡は位貴くも、職掌なし」と基経に告げたことにより大問題となる。基経は一切の政務を放棄してしまい、そのため国政が渋滞する事態に陥る。広相はこれに反駁するが、翌年6月、天皇は先の詔勅を取り消して、広相を罷免した。
延喜格:貞観 11 (869) 年から延喜7 (907) 年まで 39年間の追加,補足の法令 (詔勅,官符,官奏類) を部類したもの。編者は左大臣藤原時平以下延べ 14人。全 12巻で,神祇格から雑格までの 10巻と臨時格2巻があった。 907年(延喜7年)完成。 

答   ⑤

A 問3 解説解答

解説
作品は 興福寺仏頭:天武天皇が亡き蘇我倉山田石川麻呂のために造った飛鳥山田寺講堂本堂の頭部。現興福寺蔵。

答   ③

B 問4 解説解答

解説
① 大番役:平安時代からあった京都警衙の大番役は、諸国御家人が守護または惣領の統轄下に交代・勤番した。当初3年であったが、頼朝によって6ヶ月ついで3ヶ月に短縮された。

②第五条 諸国の地頭が年貢公事を領主に送らず横領すること年貢を抑留することで荘園領主からの訴えがあれば,直ちに決算して本所側の裁定を受けよ。それで,不正が明らかで弁明の余地のない時は,不正の額通り返済せよ。但し,それが小額の時はすぐ決済し,多額の時は三か年内で返済せよ。この主旨に反して履行しない時は職務を取上げる。

④ 式目は一般に公布されたものではなく、守護を通じて御家人に知らせ、幕府の勢力範囲を対象鬼行われ、公家や非御家人を拘束するものではなかった。朝廷の支配下では律令の系統を引く公家法が、荘園領主の支配下では各領家が定めた本所法が、それぞれ効力をもっていた。
⑤ 足利尊氏は幕府の施政方針を示した「建武式目」を制定して幕府を開いたが、幕府の基本法としては鎌倉幕府の貞永式目を継承し、以後必要に応じて新例を加えていった。これを「建武以来追加」という。

答    ③

B 問5 解説解答

解説
六波羅探題設置:承久の乱で上洛した北条泰時・時房は上皇軍を撃破し、そのまま京都の六波羅に常駐し、京都の警備、宮廷と公家の監視、尾張以西の御家人の統制にあった。これは後に六波羅探題とよばれた。(二代執権:北条義時)

北条泰時が三代執権となった翌年の1225年、重要政務の処理や裁判の採決にあたるため評定衆を設置した。また泰時は1232年守護や地頭の権限や義務を明らかにし、公平な裁判を行う基準を成文化するため貞永式目(御成敗式目)を制定した。

五代執権北条時頼は御家人の所領訴訟を専門にあつかう引付衆を設置した。
霜月騒動:安達泰盛は五代執権北条時頼の死後、御内人勢力を代表する内管領平頼綱と激しく対立し、内管領平頼綱は1285年安達一族と上野・武蔵の有力御家人を滅ぼした。

答    ①

B 問6 解説解答

解説
⑤重源:俊乗坊重源と号し、栄西とともに入宋。源頼朝の援助を受けた東大寺再建にあたって大勧請として指揮した。宋から大仏様といわれる建築様式を導入し、宋の陳和卿を招いて工事を完成した。さらに重源は大仏様をもって、播磨の浄土寺本堂を再建した。

答    ③

B 問7 解説解答

解説
武家諸法度は元和令以降寛永令(三代将軍)・寛文令(四代将軍)・天和令(五代将軍)・正徳令(六代将軍)が発布された。八代将軍吉宗は正徳令を破棄して、「天和令」を永く伝えていく事を宣言し、以後武家諸法度の改訂は行われなくなった。

答    ③

C 問8 解説解答

解説
① 2代将軍家光の死後、慶安の変が起こるなど、牢人の反乱が続出する機運が高まった。そこで、幕府は、従来の牢人対策を緩和して仕官の道を開き、一方浪人の発生を防止するために、大名末期養子の禁を緩和し、50歳未満の者に末期養子を認めた。
②六代将軍家宣は、これまで皇室の財政難から皇子・皇女が出家しなければならなかった慣例を改め新たに閑院宮家を創設し、また御料地の加増を行った。
③ 海舶互市新例の発布は7代将軍家継。
④松平定信は朱子学を正学とし儒学諸派を異学として、聖堂学問所での講義を禁じ、朱子学の保護を図った。

答   ⑤


C 問9 解説解答

解説
湯島聖堂造営:5代将軍徳川綱吉
日光東照宮造営:2代将軍秀忠が元和2年社地を定め造営工事が着工した。
昌平坂学問所開設:「寛政異学の禁」により幕府の教学政策として朱子学が奨励され、その一環として林家の私塾であった「学問所」を林家から切り離し、「聖堂学規」や職制の制定など制度上の整備を進めて幕府の直轄機関とした。
蕃書調所開設:ペリー来航後、洋学研究の必要から従来の天文台蛮書和解御用掛を拡充し、「洋学所」を開設したが、安政の大地震で全壊焼失したため、安政4年「蕃書調所」と改称し、開講した。

答   ⑤ 

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