早稲田大学受験対策入試問題解説
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早稲田大学日本史入試問題研究
早稲田大学政治経済学部過去問研究
2014年度早稲田大学政治経済学部日本史入試問題は マーク・記述併用の解答形式。出題は 古代,中世,近代,現代の各時代の史料問題が中心でした。
今回は 1 中世・武士の台頭を解説します。
1 解説解答
下線部(1)蝦夷の征討について、桓武天皇が派遣した坂上田村麻呂によって降伏させられた蝦夷の首長はだれか。 |
ア 紀古佐美 イ 紀広純 ウ 伊治砦麻呂 エ 阿弖流爲 オ 文屋綿麻呂 |
解説 |
桓武朝の蝦夷征討は4回計画された。第1回は788年紀古佐美を征東将軍として派遣したが、大敗に終わった。第2回は791年から翌年にかけて大伴弟麻呂が征夷大使となった。第3回は坂上田村麻呂を征夷大将軍として797年から4万人の兵士を動員して行われ、802年胆沢城を築いて鎮守府を多賀城から移し、翌年志波城を築いた。第4回は804年に計画されたが徳政相論における藤原緒嗣の議によって中止された。 |
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阿弖流爲:789年征東将軍紀古佐美が蝦夷征討のために遠征した際、これに抵抗し大勝した胆沢地方の蝦夷の首長。802年の坂上田村麻呂の軍に敗れ降伏した。 |
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答 エ |
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2 解説解答
2.下線部(2)検非違使の役職に就いたことのある人物を、【史料】の中で下線を引いたア~オの人物の中から選べ。 |
ア 義朝 イ 頼政 ウ 重成 エ 上皇 オ 為義 |
解説 |
オ 源 為義の通称は六条判官、陸奥四郎。 |
- 検非違使の少尉は四等官の判官に相当し、定員は不定で、衛門尉が兼務していた。10世紀後半頃から源氏や平氏などの武士がなることが多かった。源義経を九郎判官と呼ぶのもこの官職に就いていたからである。
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答 オ |
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3 解説解答
3. 下線部(3)承平天慶の乱についての説明として誤っているものはどれか。 |
ア 乱はいずれも藤原忠平の摂政在任中に起こった。 |
イ 乱を起こした藤原純友と平将門は、それぞれ国府を攻め落とした。 |
ウ 乱を起こした藤原純友と平将門は、いずれも任官の経験がある。 |
エ 乱の鎮圧には追捕使か押領使が関与した。 |
オ 乱を鎮圧した者の家柄はともにのちに武門の棟梁と呼ばれた。 |
解説 |
藤原純友の官位は従五位下伊予掾。
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平将門は藤原忠平と主従関係を結んだが、滝口の武士でしかなく検非違使佐や尉を望んだが入れられなかった。 |
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答 ウ |
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4 解説解答
4 下線部(4)清和源氏に関する説明として誤っているものはどれか。
ア 源満仲は、源高明の陰謀を密告したことを機に藤原摂関家に仕えた。
イ 源頼光の子孫に、平治の乱で斬首された源義平がいる。
ウ 源頼信の子孫は河内源氏と呼ばれ、源頼朝もその子孫である。
エ 源頼義は清原武則の支援を受けて前九年合戦に勝ち、安倍貞任を斬首した。
オ 源義家の嫡男・義親は勇猛な武者として知られたが、平正盛により追討された。 |
解説 |
源 頼光は鎮守府将軍源満仲の長子で清和源氏の3代目。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる
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源頼親は満仲の次子、大和源氏。
源頼信は満仲の三男。河内国石川郡壺井を本拠地とする河内源氏の祖。源義朝・義朝の長子義平・三男頼朝も頼信の子孫である。
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答 イ |
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5 解説解答
5 下線部(5)伊勢平氏に属する人物についての説明ではないものはどれか。 |
ア 上総を中心に反乱を起こしたが、源頼信によって平定された。
イ 伊勢の国司となり、伊賀にも所領を持った。
ウ 白河上皇の娘を弔う六条院に、自らの所領を寄進した。
エ 日宋貿易などで富を得て、海賊を追討して鳥羽上皇の信任を得た。
オ 高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を生んだ。 |
解説 |
アは平忠常。忠常の乱後も子孫は房総半島の有力武士として残り、上総氏、千葉氏がでた。 |
イは平維衡、伊勢平氏の祖。 |
ウは平正盛 |
エは平忠盛 |
オは建礼門院平徳子 |
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答 ア |
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6 解説解答
空欄[(6)]に入る作品名はどれか。ア 愚管抄 イ 百練抄 ウ 源平盛衰記 エ 方丈記 オ 十訓抄 |
摂関家命を受けて、生まれた慈円は後に表した[(6)]の中で、この乱を境に「武者の世」に入ったと述べた。 |
解説 |
慈円:父は摂政関白・藤原忠通。摂政関白・九条兼実は同母兄。1167年天台座主・明雲について受戒。1192年、38歳で天台座主になる。慈円の著した史論書『愚管抄』は、承久の乱の直前、朝廷と幕府の緊張が高まった時期の承久2年(1220年)頃成立した。
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答 ア |
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7 解説解答
下線部(7)「かれこれ合戦すでに雌雄に及ぶ由、使者参り奏す」の意味として最も近いものはどれか。 |
ア あちこちで合戦が起こり情勢が混乱していると、使者が来て伝えた。
イ この合戦には男女いろいろな人が加わっていると、使者が来て報告した。
ウ この合戦の勝負はすでに決まったと、使者が来て伝えた。
エ 合戦がかれこれ長時間に及んでいると、使者が来て訴えた。
オ あれこれ言っているうちに合戦が始まったと、使者来て言った。 |
解説 |
史料出典『兵範記』『兵範記』保元元年(一一五六)七月十一日条、
保元の乱:鶏鳴清盛朝臣、義朝、義康等軍兵すべて六百余騎白河に発向す。この間主上御輿を召し、東三条殿に遷幸す。この間頼政、重成、信兼ら重ねて白川に遣はされ了んぬ。彼是合戦已に雌雄に及ぶの由使者参じ奏す。この間主上御願を立て、臣下祈念す。辰の剋、東方に煙炎起こる。御方軍已に責め寄せ火を懸け了んぬと云々。清盛ら勝ちに乗じ逃ぐるを逐ふ。上皇左府跡を晦まし逐電す。白川御所等焼失し畢んぬ[斎院御所並びに院北殿なり]。御方軍、法勝寺に向かひ、検知す。また為義の円覚寺住所を焼き了んぬ。主上この旨を聞こしめし、即ち高松殿に還御。その儀、朝の如し。賢所還御。午の剋、清盛朝臣以下大将軍皆内裏に帰参す。清盛・義朝直ちに朝餉に召し、勅定を奉(うけたまは)る。上皇・左府の行方を知らず。但し左府においては已に流れ矢に中る由、多く以て称すと申す。為義以下軍卒同じく行方を知らずと云々。宇治入道殿、左府のことを聞こしめし、急ぎ南都に向ひ逃れしめ給ひ了んぬと云々。
辰の刻(朝8時)には白河殿が炎上し、大勢は決していた。
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答 ウ |
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B-1 解説解答
1. 【史料】1が描く戦乱の名称を記せ。 |
解説 |
史料出典『兵範記』『兵範記』保元元年(一一五六)七月十一日条 |
清盛朝臣、義朝、義康等軍兵すべて六百余騎白河に発向す。 |
保元の乱:藤原摂関家は忠実とその次子頼長と、長子忠通との対立が起こり、皇室でも後白河天皇と、崇徳上皇との対立が生じた。この貴族間の対立が、源氏内部の源為義・為朝と源義朝殿対立、平氏内部の平忠正と平清盛との対立を含んで保元元年、鳥羽法皇の死去を機に爆発した。結果は崇徳上皇側の敗北におわった。 |
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答 保元の乱 |
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8-2 解説解答
2. 下線部(8)左府で示された人物の姓名を感じで記せ。 |
解説 |
藤原 頼長:兄の藤原忠通と対立し、父・藤原忠実の後押しにより藤原氏長者・内覧として旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない性格により悪左府の異名を取った。美福門院・忠通・信西らに追い詰められ、保元の乱で敗死した。
左府は左大臣の意味。
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答 藤原 頼長 |
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8-3 解説解答
3. 下線部(9)宇治入道殿で示された人物は、この乱において摂関家内部で争いあった兄弟の父である。この人物の姓名を漢字で記せ。
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解説 |
藤原忠実:藤原北家の嫡流であり、堀河天皇の関白、鳥羽天皇の摂政、関白を務めた。しかし当時は権力の実権は天皇ではなく上皇や法皇が握る院政期であり、院の近臣がしだいに力を持つようになったため、忠実は凋落していく藤原摂関家を建て直し、再び隆盛に導くことにその生涯をかたむけた。白河院は自分が寵愛する藤原璋子を忠実の嫡子 忠通の室にするよう要請してきたことを固辞したため、忠実は内覧を停めれら蟄居の身となり関白職は嫡子である忠通が就任したが、忠実は白河院が崩御するまで10年間謹慎生活を余儀なくされた。白河院の崩御により、院政を開始した鳥羽院により忠実は謹慎を解かれた。忠実は鳥羽院に近づき藤原氏の権力回復を画策したが、これに反対する嫡子忠通と対立するようになった。また、忠通は寵愛する次男頼長に藤原氏の氏長者を譲り忠通とは絶縁状態となり、鳥羽院崩御の後に勃発した保元の乱(1156年)で忠実と頼長は敗北し頼長は戦死するも忠実は忠通の尽力により死を免れ知足院に幽閉の身となった。 |
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答 藤原忠実 |
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