(1) 空欄アに当てはまる人物の名前としてもっとも適切なものを、問1の語群より1つ選びなさい。 |
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解説 |
ア源頼政(源三位,馬場頼政とも):保元の乱、平治の乱を勝ち抜き、平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まった。平清盛から信頼され、正四位下を極位としていた清和源氏としては従三位に叙せられた。平氏の専横に不満が高まる中で、以仁王と結んで平氏打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏に平氏打倒の令旨を伝えた。計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、平氏の追討を受けて宇治平等院の戦いで敗れ自害した。 |
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(2) 下線部(a)の説明として最も適切なものを、次から1つ選びなさい。 |
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① 天皇の命令・意思を伝えるために発する文書。 |
② 天皇の意思を、側近で仕える蔵人が承って伝える形式の文書。 |
③ 東宮の意思を特別に伝えるための文書。 |
④ 皇后・皇太后・皇太子・親王・王らが、命令・意思を伝えるために発する文書。 |
解説 |
令旨:中国(唐)では皇太子の命令を伝える文書を令といったが、それが日本に伝わり、日本では皇太子の命令を伝える文書を令旨といい、太皇太后・皇太后・皇后の出す文書もこれに準じた。平安時代中期以降は、皇太子・三后以外の皇族(女院・親王・諸王)のものも令旨と呼ばれるようになった。 |
以仁王は天皇の皇子でありながら親王宣下を受けていないため、平家討伐を決意した以仁王は自らを「最勝親王」と称して、平家追討の「令旨(りょうじ)」を発し、平家打倒の挙兵をうながした。
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(3) 短文Bの人物と、源頼朝との続柄は何であったか。もっとも適切なものを、次から1つ選びなさい。
① 兄弟 ② 従兄弟 ③ 叔父・甥 ④ 親子 |
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解説 |
源範頼は源頼朝の異母弟。頼朝は源義朝の三男。母は尾張国熱田神宮大宮司藤原季範の女。大進局。範頼は義朝の六男。母は遠江国の遊女。 |
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(4) 短文Cの人物が立てた九条家は、藤原四家のいずれから分立したか。もっとも適切なものを、次から1つ選びなさい。
① 南家 ② 北家 ③ 式家 ④ 京家 |
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解説 |
南家は武智麻呂・北家は房前・式家は宇合・京家は麻呂とそれぞれ藤原不比等の4人の息子が興した。 |
北家は弘仁元年(810年)の薬子の変で嵯峨天皇の信任を得た冬嗣が急速に台頭し他家を圧倒するようになった。さらに、冬嗣が文徳天皇の、その子良房が清和天皇の、そしてその養子(甥)基経が朱雀天皇と村上天皇の、それぞれの外祖父となり、北家嫡流が三代にわたって外戚の地位を保ち続け、道長・頼通父子の時代に摂関政治の全盛を極めた。その子孫は五摂家に別れたが、公家の最高家格はひきつづきこの五家が独占した。
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(5) 下線部(b)の計略とは、具体的にいかなるものであったか。その説明としてもっとも適切なものを、次から1つ選びなさい。① 頼朝が後白河法皇に源義経追討の院宣を出させようとした。②頼朝が、壇ノ浦で捕縛された平宗盛を斬殺しようとした。③ 頼朝が娘の大姫を後鳥羽天皇の妃にしようとした。④ 頼朝が藤原秀郷の後裔を名乗る奥州藤原氏を打倒しようとした。 |
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解説 |
藤原兼実は頼朝の推挙によって内覧の宣旨を受け、摂政・藤原氏長者、その後太政大臣となった。建久元年(1190年)には娘・任子を後鳥羽天皇に入内させ中宮に冊立したが、頼朝が長女・大姫を後鳥羽天皇の後宮に入内させようと工作したことにより頼朝・兼実の関係は冷却し、建久7年(1196年)建久七年の政変によって関白の地位を追われ失脚した。 |
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(6) |
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解説 |
源義仲は、1183年加賀国・越中国の国境である砥波山付近倶利伽羅峠で平教盛・平維盛率いる平家軍と戦い大勝した。
平家軍は義仲追討軍10万の大半を失い平維盛は命からがら京へ逃げ帰った。この戦い後、源義仲は念願の上洛を果たした。大軍を失った平家は安徳天皇を奉じて西国へ都落ちした。
『源平盛衰記』には、この攻撃で義仲軍が数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中に向け放つという戦術をとったという記述がある。
写真は火牛像(道の駅倶利伽羅 源平の郷)
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(7) 空欄ウには、ある役職が当てはまる。これに任命されなかった人物を、次から1つ選びなさい。①源頼朝②坂上田村麻呂③宗尊親王④平清盛 |
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解説 |
ウ:征夷大将軍 |
①源頼朝は後白河法皇の死後1192年に将軍宣下を受けている。②坂上田村麻呂は797年征夷大将軍に任じられ敵対する蝦夷を降し802年に胆沢城、803年に志波城を築いた。③宗尊親王は鎌倉幕府5代将軍藤原頼嗣が京に送還された後の建長4年(1252年)に11歳で鎌倉に迎えられ、異母弟の後深草天皇より征夷大将軍の宣下を受けた。皇族での初めての征夷大将軍。④平清盛は武士としては初めて太政大臣に任ぜられ、一門も高位高官について、はじめての武家政権がたてられた。しかし平氏は独自の支配機構を作ることができなかった。 |
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(8) |
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解説 |
①頼朝挙兵:治承4年(1180年)、高倉宮以仁王の平氏追討の令旨を受け、頼朝は伊豆国目代山木兼隆を伊豆国韮山にある兼隆の目代屋敷で襲撃し、兼隆を討ち取った。伊豆を得た頼朝は相模国土肥郷へ向かった。しかし三浦軍との合流前の23日に石橋山の戦いで、頼朝らは平家に仕える大庭景親、伊東祐親ら三千余騎と戦い、三百騎を率いる頼朝は敗れた。
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②北条義時追討の宣旨 承久三年五月十五日『小松美一郎氏所蔵文書』 |
③(承久三年五月)十九日,壬寅……二品(=北条政子),家人等を簾下に招き,秋田城介景盛を以て示し含ませて曰く |
④正仲 嘉暦の比は其振舞先年に超過し・・・(正中元年(1324)から悪党がさかんに蜂起するようになり、) |
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(9) |
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解説 |
① 梶原 景時 ②比企能員 ③武田信義 ④ 上総広常 |
上総広常は房総平氏惣領家頭首であり上総氏が嫡流で千葉氏は庶流。 |
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(10) |
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解説 |
源義経:異母兄頼朝が平氏打倒の兵を挙げると馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、その最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく後白河法皇より左衛門少尉、検非違使に任じられるなど官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって頼朝の怒りを買い、それに対し自立の動きを見せ、後白河法皇に頼朝追討の宣旨を要請し、宣旨が下されたが後に法皇が今度は義経追討の院宣を出したことから窮地に陥り、全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼ったが秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てた。 |
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(11) |
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G 公家出身で、源頼朝に招かれて公文所の初代別当になった。 |
解説 |
②『吾妻鏡』11月12日 辛卯 因幡の前司廣元(=大江広元)申して云く、世すでに澆季に属く。梟悪の者尤も秋を得るなり。天下 反逆の輩有るの條、更に断絶すべからず。而るに東海道の内に於いては、御居所たるに依って静謐せしむと雖も、奸濫定めて地方に起こるか。これを相鎮めんが為、毎度 東士を発遣せられば、人の煩いなり。国の費えなり。この次いでを以て、諸国の御沙汰に交わり、国衙・庄園毎に守護・地頭を補せられば、強ち怖れる所有るべからず。 |
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(12) |
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I [カ]の一族で、侍所の初代別当となった。合議制に加わり有力御家人として力を持ったが、後に北条氏と鎌倉で戦い敗死した。 |
解説 |
和田氏は坂東八平氏のひとつ三浦氏の支族。和田義盛は三浦義明の孫にあたり、三浦義村は従兄弟。 |
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(13) |
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I [カ]の一族で、侍所の初代別当となった。合議制に加わり有力御家人として力を持ったが、後にd北条氏と鎌倉で戦い敗死した。 |
解説 |
和田合戦:源頼朝の死去後、幕府では御家人間の争いが続き、有力御家人の梶原景時、比企能員、畠山重忠らが滅ぼされている。建仁3年(1203年)に2代将軍頼家が幽閉された後に暗殺され、北条時政・義時父子によって実朝が将軍に擁立される。執権となった北条氏が幕府の実権を握りつつあったとき、鎌倉幕府創業の功臣であり侍所別当の和田義盛は二代執権北条義時に度重なる挑発を受けて、同族の三浦義村と結んで北条氏を打倒するための挙兵をした。だが、土壇場で三浦義村は北条方に与し、兵力不足のまま和田一族は将軍御所を襲撃し、鎌倉で市街戦を展開する。合戦は2日間にわたり続くが将軍実朝を擁し、兵力に勝る幕府軍が圧倒し、和田一族は力尽き、義盛は敗死した。この合戦の勝利により、北条氏の執権体制はより強固なものとなっていった。 |
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(14) 空欄[キ]に当てはまる人物の名前としてもっとも適切なものを、問1の語群より1つ選びなさい。 |
J 源頼朝の養子で、北条時政の後妻の娘婿。時政は、この人物(= 平賀 朝雅)の讒言によって[き]を謀殺し、さらに源実朝をも殺しこの人物を将軍に立てようとした。 |
解説 |
平賀 朝雅:朝雅の母は源頼朝乳母比企尼の3女。北条時政の後妻牧の方の娘婿となる。建仁3(1203)年の比企氏討滅に加わり,源頼家幽閉後京都守護となる。在京中,畠山重忠の子重保と不和になり,朝雅が重保との争いを妻の母牧の方に訴え、牧の方が夫の北条時政に畠山親子に謀反の疑いがあると讒言したため,翌元久2年北条時政は重忠・重保父子を討った。 |
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答 (1) 10 (2) 4 (3) 1 (4) 2 (5) 3 (6) 2 (7) 4 (8) 3 (9) 2 (10) 3 (11)2
(12) 3 (13) 1 (14) 22 |